巨人の誕生エピソードがビジネス的示唆に富む件

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プロ野球巨人、読売ジャイアンツの創設背景を知っていますか?

試練だらけだった東京オリンピックが終わりました。
オリンピック自体の成功不成功の話は受け取り方によって違うと思いますが、日本選手が獲得した金メダル数も過去最高で、オリンピック種目の採用競技としてはおそらく今回が最後になるであろう野球で日本が全米相手に金メダルを取り、その力を世界に見せつけました。

野球の日本代表チームの奮闘ぶりを見ていてふと野球、巨人の歴史についてマーケティング目線でアウトプットしたくなりましたので興味のある方だけお付き合いいただければと思います。


海の向こうの野球、アメリカ・メジャーリーグにはかつてベーブ・ルースという大選手がいました。
ボストンレッドソックス、ニューヨークヤンキースなどに所属し、日本で言うと大正から昭和、戦前あたりまでに活躍した選手です。

彼は「野球王」と呼ばれ、アメリカはもちろん、日本でも人気がありました。

ベーブ・ルース

ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman “Babe” Ruth, Jr. , 1895年2月6日 – 1948年8月16日)は、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア出身の元プロ野球選手。愛称は「バンビーノ(The Bambino)」。童顔であったことから赤ん坊を表すベイビーをもじり「ベーブ(Babe)」とも呼ばれていた。
最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人であり、本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した。1927年に記録したシーズン60本塁打は、1961年にロジャー・マリスによって破られるまでの34年間、MLB最多記録であった。
また、生涯通算本塁打数714本も1974年にハンク・アーロンに破られるまで39年間MLB最多であった。
ブラックソックス事件による当時の球界への不信感を豪快な本塁打の連発により払拭するにとどまらず、さらに野球人気を高めることに成功した。アメリカ国内において、数多いプロスポーツの一つに過ぎなくなっていた野球を、最大の人気スポーツにした事で「野球の神様」「アメリカ球界最大の巨人の1人」と評されている。

出典:Wikipedia

巨人の親会社といえば読売新聞だし、野球の興行といえばマスメディアはつきものというのが現代の常識です。
新聞社と野球の関係といえば、大正時代にはすでに、
・朝日新聞による「夏の高校野球大会」
・毎日新聞による「春の選抜高校野球大会」
があり、それぞれ自社新聞のプロモーションとして主催していました。

しかし、そのライバルとして鎬を削る読売新聞にはこれに当たるものがありませんでした。
朝日や毎日に対抗した六大学野球やボクシングの興行を打つことなどはしていたものの、プロモーション効果として満足のいく結果は得られていませんでした。

そこで、社長の正力松太郎は「メジャーリーガーを呼んで”日米野球”をやろう」と画策します。
1931年、昭和6年のことです。

正力松太郎

正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務官僚、警察官、実業家、政治家およびCIAの協力者。読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ会長、日本武道館会長等を歴任。また、読売ジャイアンツ創立者であり初代オーナー。

出典:Wikipedia

トミタウロスのブログ
正力発案の「日米野球」は大成功を収めます。

それに気を良くした正力は、アメリカで大人気の「野球王」ベーブルースを呼ぼうと思い立ったわけです。

もちろん興行的にも日米野球史上の群を抜く大成功をおさめます。
なにせ海の向こうの「野球王」が来るわけですからね。

会場だった明治神宮球場は阿鼻叫喚の超満員で、山手線の原宿駅までその行列が絶えなかったというまことしやかな伝説も残っているほどです。

まだ日本にプロ野球チームやリーグの誕生前、国民に娯楽も少なかった時代のこととはいえ、この頃すでに高校野球や大学野球が盛んだったので、野球熱というムーブメントの下地が国民にあったのです。

巨人誕生の背景1

市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。
平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得するなどチームが形作られていった。
この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった。
(中略)
試合は全日本代表チームの15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合)で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁した全米代表は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。
この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。
12月26日に全日本代表チームの選手を中心にした選手19名で、後に巨人軍の前身となる大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。
このことから、「読売巨人軍発祥の地」の石碑が、かつて谷津球場のあった千葉県習志野市谷津の谷津公園内に設けられており、長嶋茂雄、王貞治、原辰徳ら歴代の巨人軍の監督や選手らの手形とサイン付きの石のプレートが並べられている。現役選手が訪れることもある。

出典:Wikipedia

巨人誕生の背景2

…特に明治四十一年にはじまった日米野球は有名で、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグも来日した。
当時はまだ日本にプロ野球チームはなかったから大学野球のスタープレイヤーを集めてアマチュアの全日本チームを結成、たびたび全米チームと対戦し興行的には活況を得たが、至極当然なことではあるが、彼らは全米チームにまるで歯が立たなかった。あまりの力量差に愕然とした日本の野球関係者が「我が国の野球を強くするためにもプロ野球の創設を」と短兵急に奮い立ち、この日米野球を自社の新聞のプロモーションのために主催していた読売新聞の社主である正力松太郎が、全日本チームの選手主体でプロ野球チーム「トーキョー・ジャイアンツ」をつくった。
そして日本各地の新聞社、鉄道会社などがそれに呼応して次々とプロ野球チームをつくり、昭和十一年にはリーグ戦が行われるまでになっていた。

出典:「広島の風」(ST著:カクヨム)

そうして、ついにプロ野球チーム・巨人の誕生への系譜となります。

上記の2つの引用からもわかるとおり、
アメリカ代表(全米軍、メジャーリーグ代表チーム)との試合をやるにあたり大学野球のスター選手を集めて急造して間に合わせた「全日本」チームが「巨人=読売ジャイアンツ」の元となる、つまり巨人の起源ということになるわけです。

巨人の起源となった全日本チームとベーブ・ルースを擁するメジャーリーグ選抜チームの試合結果は、もちろん力量の差が明確で、すでに開催した日米野球の例に漏れず、全日本チームの惨敗だったことは野球ファンの語り草です。

日本結婚相談所連盟


いくら新聞の興行目的とはいえ全米軍を迎え撃つにあたり国内の持つ全ての野球の戦力を集めて「全日本」チームとして突貫対応をするのはかなり無謀な行為と言わざるを得ません。

これには先述の引用にもあるように職業としてのプロ野球選手、それを組織にしたプロ野球チーム、プロ野球リーグが存在しなかったことがまず前提にあり、日米野球でボロ負けしたことで当時の日本球界が焦り、「大日本東京野球倶楽部」、のちの巨人誕生、つまり日本のプロ野球チームの誕生への布石となるわけです。
※実は「大日本東京野球倶楽部」の前に職業として、つまりお金を取って野球を見せる、「プロ野球チーム」の要素を満たす球団が存在したので巨人は「日本初」ではないものの「日本国内に現存する最古のプロ野球チーム」ということになります。


何が言いたいかというと、この話はそういう大きなピンチや追い込まれた局面が思わぬ副産物を生むという典型例であり、現代のビジネスシーンにおいてもこういうケースがよく起こることなので、この巨人創設エピソードとは非常に示唆に富む出来事だと感じます。

東京オリンピックでの日本野球の金メダル獲得のニュースに触れた折、ふとこのエピソードが想起され、以前から現代ビジネスにも通ずるところがあると感じていたエピソードであったために、この東京オリンピック終了直後のタイミングで記事として書くに至りました。


当記事が何かしらのご参考になれば幸いです。