大使館経由で亡命を果たしたケースまとめ
2021年開催の東京オリンピック中、陸上100mのベラルーシ代表のクリスツィナ・ツィマノウスカヤ選手が東京のポーランド大使館に亡命申請をして受理され、母国からウクライナに逃れた夫と子とともに亡命を果たしたというニュースが報じられました。
そもそも「亡命」にはタイプがいくつかありますが、主に以下のように定義される行為を指します。
亡命(ぼうめい)とは、主に政治的な事情により、政治家、軍人、学者、芸術家、文化人、スパイなどが他国に逃れることを意味する。亡命した志士・名士を亡命客と称する場合がある。
出典:Wikipedia

大使館ルートでない亡命であれば枚挙に遑がなく、主なものだけでも以下の事例があります。
・1933年 アインシュタインがナチスドイツから米国に亡命
・1959年 チベットのダライラマ14世がインドへ亡命
・1970年 日本の共産主義者同盟赤軍派メンバーが日本航空機(よど号)をハイジャックし、北朝鮮へ亡命(よど号ハイジャック事件)
・1976年 ソ連空軍のパイロット、ヴィクトル・イワノヴィチ・ベレンコ中尉が乗機MiG-25で函館空港に強行着陸。アメリカ合衆国に対し亡命を申請(ベレンコ中尉亡命事件)
・1989年 ルーマニアの体操選手、ナディア・コマネチがルーマニアからハンガリー経由でアメリカに亡命
・2007年 ネパールの親王族派の有力一族であるケー・シー・ディパックが、ネパール共産党毛沢東派からの迫害を受け、日本へと亡命
・2009年 キューバの野球選手アロルディス・チャップマンが、野球キューバ代表の遠征地オランダにて亡命
・2013年 アメリカ合衆国連邦政府の元CIA職員エドワード・スノーデンがロシアに亡命
・2021年 サッカー・ワールドカップの予選に出場するために来日していたミャンマーの代表選手が国軍のクーデターにより母国が政情不安になっていることを理由として、帰国することを拒否し亡命


ただ、今回のクリスツィナ・ツィマノウスカヤ選手ように外国にある第三国の大使館に駆け込んで亡命をする「大使館ルート」の亡命は正規ルートのように見えてあまり数は多くありません。
主なものは以下です。
亡命者:ヴィタリー・ユルチェンコ 亡命日時:1985年8月1日 イタリア滞在中のソ連KGBのユルチェンコ大佐が在ローマのアメリカ大使館に駆け込み、アメリカへ亡命を申請して受理、そのままアメリカへ出国。 ユルチェンコ大佐はアメリカ中央情報局(CIA)の取調べに協力し、CIA職員のエドワード・ハワードと元NSA職員のロナルド・ペルトンが実はKGBのスパイであることを暴露。ハワードは捉えられる前にソ連に逃れ、ペルトンは後に逮捕され終身刑3回の判決を受け、2015年11月に釈放された。 1985年11月2日、CIA職員とワシントンのレストランで食事中だったユルチェンコは突然席を外し、店の裏口から店外へ出てそのまま在ワシントンのソ連大使館に駆け込み、アメリカ亡命によって離れた祖国ソ連への二重亡命を果たした。 ユルチェンコは、ローマではCIAに誘拐され薬物を注射されて意識不明の状態でアメリカに運ばれたと主張。そのままソ連に帰国。ソ連はユルチェンコの身分を外交官であると主張し、その「誘拐」を強く非難した。
亡命者:金高哲とその一家(※未遂) 亡命日時:2002年5月8日 北朝鮮出身の金高哲一家など5人の亡命者が中国瀋陽にある日本国総領事館に駆け込みを画策して失敗。中国人民武装警察部隊に取り押さえられた。
この「大使館ルート」の亡命事件は調べればもっとあるのかもしれませんが記事のスペースの都合上、上記のみにとどめています。

ユルチェンコの「二重亡命」については、CIAを騙す目的で最初からユルチェンコが二重スパイを演じていた可能性が指摘されていること、2名のスパイをアメリカ側に売り渡すという犠牲を敢えてしたのも大物スパイのオルドリッチ・エイムズから捜査の目をそらさせるための捨て身の作戦であったとも指摘されているなど多くの謎を残しています。
晴れて(?)ソ連に帰国したユルチェンコのその後の消息は不明ですが、年齢的にもう存命でない可能性が高いと考えられています。
「ベレンコ中尉亡命事件」のベレンコは亡命先のアメリカにて航空イベント会社にてコンサルタントをしているらしいという情報があるものの2010年現在のもので、その後の消息は不明です。
先日、スパイ本を読破してたまたま仕入れた知識があったことと、東京オリンピック開催中に亡命をしたベラルーシの陸上選手のニュースを目にしたため、アウトプットと忘備録としてブログに残すことにしました。
