オリパラ特番でなぜテレビタレントを起用するのかマーケティング目線で分析する

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✓ もくじ

  1. テレビ関係者はテレビタレントを起用するのが「正」という概念が根底にある
  2. バラエティー番組とスポーツ特番を同じフォーマットでしか考えられない原因
  3. ギョーカイの商習慣を打破できないテレビ関係者の煩悶
  4. テレビにおけるスポーツコンテンツの今後

テレビ関係者はテレビタレントを起用するのが「正」という概念が根底にある

トミタウロスのブログ
以前書いた「テレビがなぜつまらないのか」の記事が想像以上の反響をいただいている。
そこで、本日現在で東京オリンピック開催中ということもあり、広告、テレビ、芸能関係のいずれの組織にも身を置いたことのある私が感じた「なぜテレビ関係者はスポーツ特番にいちいち芸能人を出して語らせたがるのか」の疑問をマーケティング目線の新章として書くことにした。

上記の過去記事は、ざっくりというと「テレビに芸能人が多すぎ問題」について分析したものだが、今回の東京オリンピック、パラリンピックをはじめとしてテレビ局が作るスポーツ番組全般にはこの問題が色濃く影を落としていることをお感じの人も少なからずいるかもしれない。

スポーツコンテンツを視聴する層としてはもっとスポーツの情報だけを淡々と純粋に楽しみたいのに、必ずスタジオを用意してテレビタレントやスポーツタレントなど芸能人を並べて、スポーツ中継のあとにスタジオに戻して「○○さん、いかがですか?」話法で芸能スポーツ界隈がやりがちないわゆる”感動ポルノ”のような感情の押し付けをする、あとは「タイアップ」と称して大手芸プロのアーティストの曲を主題歌にしてスタジオに戻すたびにそれを流す。以降このループが続くわけだ。これを「うんざり」と言わずして何と言う。

NHKや民放各局のテレビ局制作のスポーツ特番はだいたいこの構成で説明することができてしまう。
どうして彼らがこういうウザい構成にしてしまうのか、しなければならないのか。
こういう現象が起き、テレビ業界を支配しているのはなぜか。

バラエティー番組とスポーツ特番を同じフォーマットでしか考えられない原因

トミタウロスのブログ
テレビ番組には必ず芸能人を呼んでスタジオからワイプでリアクションしてコメントをもらう金太郎飴バラエティー的な画一フォーマットから脱却できないのが今のテレビ業界の病巣である

前提条件として、テレビ関係者は元々ブラック労働の代名詞でもあり、パワハラという言葉が存在する前からそういう習慣や行為が古くから存在し、「完徹(※「完全徹夜」の略)○日」などと徹夜の日数や労働時間の長さを自らの多忙ぶりを自慢する意味として使っていた業界だ。
「何日寝てない」や長時間の残業が自慢になるような業界はロクな業界であるはずがない。

もちろん「働き方改革」「働き方の多様化」という概念が存在する前の時代の話だし、広告業界などテレビ業界以外にも「労働基準法」があろうがなかろうが、そういう空気は厳然と存在した。
映像系だけでなくWEB系の制作会社にだってそのような風潮は古くからあったし今でも一部で残っている。
飲食店や運送業などもかなり過酷な職業だし、過労死で亡くなる人もいる。
こういう「24時間戦えますか、ジャパニーズビジネスマン」的な精神論・根性論は古くから社会全体に存在し、企業はもちろんのこと、学校の部活にすらあった。
つまり、こういう現象はテレビ業界特有のものではない。

ただ、テレビ業界や芸能界は旧態依然とした業界であるところは広く知られている通りで、そんな業界であるがために近年の社会におけるコンプライアンス強化の強化の波に揉まれて瀕死の重傷に陥っていることは言うに及ばずながら、さらに深刻なのは「仕事がキツイ、給料が安い、キャリアパスの展望がしづらい」イメージの強い業界である上に少子化が決定打となり彼らの人材不足は通年の悩みだ。芸能マネージャーやテレビ番組のADなどは昔から「キツくてすぐやめる(離職率が高い)職種」の代表格だ。
そういう現象も、テレビ業界の業績悪化の要因となっていることは明白で、当の彼らも内部の悪しきフォーマットのアップデートができずに苦しんでいる。

最近はテレビADなど若手の労務管理は厳格にしている(ブラックにならないようにあまり残業させない)風潮があるとはいえ、それは発注元のテレビ局側の話で下請けの制作会社はそうはいかない。
ディレクター以上の然るべきポジションにいる管理職の人たちにはキャパオーバーのタスクが山積みで夜な夜なその日の残タスクを処理する毎日を過ごしている。

そもそもそんな業界になぜ飛び込んだのか、そういうところに身を置く人の心理が私には理解できないが、とにかく彼らの業界にはそういったバックグラウンドがあるために業界内の新陳代謝も促進されず人材も固定される傾向が顕著で、日々の組織運営で手一杯なところがあり、肝心のクリエイティブを半ば放棄せざるを得ず、これまでの商習慣や画一的なフォーマットを打破できずに生きていくしかないというきわめて深刻な現状がそこには介在する。

ギョーカイの商習慣を打破できないテレビ関係者の煩悶

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テレビ業界=芸能界とも言えるこの問題の縮図がテレビから放映されるコンテンツからは読み取れる。

テレビを制作する「ギョーカイ人」には、日頃より世話になっている芸能事務所の意向を果たすためには都度それらの「出演枠」を設けて便宜を図る必要があり、新しい番組や既存の番組の新コーナーなどへの「出演枠」を設けることを常に求められる。このループの中にテレビ関係者の身は置かれ、そこから抜け出せないでいる・・・という根の深い問題がある。
テレビ業界の人が芸能事務所に「お世話になる」というマインドを明文化すると、概ね以下のような状態を指す。
数字の計算を明確に立てることができる所属タレントを使わせてもらっている=数字がある程度計算できる=スポンサー企業を獲得しやすい/スポンサー企業の意向を反映させやすい=目先の収益を上げやすい=テレビマンたる自分自身の実績になる

上記の図式はかなり簡略化しているが、実際にはもっと複雑で込み入った事情があり、広い業界や企業、組織、人物などが関与していたり、ごく稀ではあるもの、芸能界に便宜を図った見返りとして金銭など何らかの利益の供与を受けるケースすら発生しているという悩ましい裏事情もある。


テレビ業界とて過去の黄金期(1960年代〜1990年代前半)に蓄えた力やプライドも僅かながらに存置しつつ、インターネットの勃興によりその力は衰退の一途、「目立ちたがり屋」の承認欲求を果たすための自己満足感情増幅装置にまでその財産を貶めている現状がある。
テレビの制作者は「テレビタレントのコメントを視聴者が求めている」「芸能人の意見を世間の人々は有り難がって耳を傾ける」と(かなり無自覚に)思っている節があり、その大前提の元でテレビ番組や自社イベントなどのものづくりが行われているわけだ。


もちろん、テレビがなぜつまらないのかでも触れたように、テレビ業界関係者にも危機を感じている人はいるはずだ。
しかしながら、テレビ局と大手芸能事務所の結びつきは「持ちつ持たれつ」の強固なものである上に資本提携までしているケースすらあるため、芸能人の「枠」を減らすような行為に加担する覚悟があり、芸能界とのズブズブな関係性の解消、凝り固まったテレビ業界の商習慣や固定概念の打破をできる新しい感性と度胸を持ったテレビクリエイターみたいな者はおそらく皆無で、今後そういう逸材が現れてこの業界が劇的な変化を遂げるようなことは期待できない。

テレビ関係者とて血の通った人間だ。
懇意にしている芸プロの芸能人と仕事をしているうちに親しくなることもあるだろう。
そうなれば、世間のタレントイメージ調査のデータや社会の認知度やマーケットとしての需要を度外視してもその人を起用したくなるマインドに陥りがちなことも理解する。
テレビ業界だ芸能界だのと言ったところで、結局は人間対人間の付き合いだからそりゃあ何らかの感情も芽生えるに違いない。「あの有名タレントとお仕事をした」称号や経歴が手に入るとギョーカイ内で鼻が高いのかもしれない。

スポーツコンテンツで言えばもっと深刻にこういった作用が働いていて、ことマイナースポーツであればあるほど芸能人の力を借りてプロモーションをせざるを得ない実情があり、「盆」と呼ばれるシノギを守り抜くために、有名人たる芸能人におんぶに抱っこで生き延びるしかない背景がこの世界にはあるように思う。

そんな中でテレビ業界は今まさにインターネットコンテンツの脅威や海外の”黒船”の襲来により苦境に立たされているが、当人たちがそんな状況ではその危機感を感じる余白も余裕もないわけだ。

テレビにおけるスポーツコンテンツの今後

トミタウロスのブログ
テレビとネットの融合はどう考えたってますます加速していくが、それしかテレビの生き残る道が残されていないとも言える。

テレビ業界の現状として、テレビ各局それぞれが独自のオンデマンド(サブスク)サービスを持ち、自社コンテンツを配信している。
しかしながら、NetflixやAmazonプライムに代表される海外発の映像コンテンツのサブスクサービスに比べればそれらはきわめて旧式で短距離の鈍重な大砲でしかなく”黒船”に太刀打ちできるような代物ではない。
それは単純にWEBサービスとしての仕様の問題もあるが、そこで提供されるコンテンツ自体の品質が画一的でチープであることに致命的な原因がある。
コンテンツがチープである原因は当記事でも説明がつくものの、原因の詳細についてはテレビがなぜつまらないのかをご参照されたし。


ある映画評論家で「海外のサブスクに国内のテレビ局が迎え撃つには各局独自のサービスをやっている場合ではない。黒船に立ち向かうためには日本国内のサブスクサービスは統一するべきだ」と言った者がいるが、発言者本人が芸能人であることもあり、表層上の上澄みを掬っている程度の浅い問題提起でしかない。

我が国特有の悩ましき闇深い商習慣が頭を擡げていて、これを解消して業界の強ばった空気を刷新するためには本記事で触れたような根底の部分にある問題を打破していく必要があるが、これを叶えるためにはそれ相応の逸材の登場を業界内に現れるのを待つか、そうでなければテレビというものはネットとの融合を進めつつも無料のタウン誌と防災機能が備わった装置として細く長く緩やかに生き残り続ける未来が待っているだろう。テレビ(局)の運命とは、私はどうも後者な気がしている。

海外の”黒船”ネット配信サービス、コンテンツのサブスクサービスへの対抗馬は我が国では出てくることなく、テレビにおけるスポーツ関係のコンテンツにも同じ構図が当てはまり、このままでは同様の運命を辿っていくことは想像に容易い。
スポーツだろうがドラマであろうがドキュメンタリーであろうが、どんなコンテンツでもテレビ(局)というデバイスを通じて発信されるものには、あまり期待はできない。


本記事が微力ながらもあなたのお役に立てれば嬉しい限りである。

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