他人との意見の相違は宗教の違いと悟るべきという話

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✓ もくじ

  1. 人間には生まれ育ったバックボーンがあり家庭の思想がある
  2. 他人とは常に「宗教の違い」による摩擦や軋轢が発生すると考えるべき
  3. 「宗教の違い」の乗り越え方はファクトを積み上げて解決策を探るのみ
  4. 他人との摩擦は「人生あるある」と明るく捉えることで救われる

人間には生まれ育ったバックボーンがあり家庭の思想がある

当然ながら人間は親の影響を受けて育ちます。
その親とて人間であり、人間の頭の中は多種多様で、それぞれ独自の考えを持ちます。
先天的なもの、それを背景にして大人になって社会に出てから人格の形成に寄与する後天的なもの、この2種が人間のバックボーンであり思想であると私は考えます。

思想があるということは、自分の思い描く家庭像なり社会像なり企業像、働き方、いくら収入が欲しいなどの人生のゴールや目的、理想像が明確にあるとも言えます。

この世の人間が全員、このようなバックボーンからくる思想をそれぞれ持つわけです。
そうなると友人知人、同僚、パートナー、時には家族でさえ、何かの考え方の違いから衝突することは生きていく上で往々にして起こるハードイベントです。
何らかの宗教を信仰する人たちの間でも宗教対立や宗派対立が起こるわけです。
御本尊が同じ、教祖が同じ、教典が同じなれど「解釈の違い」から宗教宗派同士で対立をする事象は今でも世界中に存在し、そこから派生した内紛や戦争、テロなどの事件が起きていることは皆さんもご存知でしょう。
また、それを統治するはずの政治は宗教や民族を背景にしていることが多く、我が国をはじめ世界では政治的対立がそこかしこで起きています。


私のような無宗教な人間であっても仕事や日常生活においてこれと同じような構図で理想のゴールの違い、ゴールまでのアプローチの違い、考え方の他人との差異が出てくることはよくあります。

そういう事態に陥った場合、昔の私は、
「なぜわかってくれないんだ」
「この方法が最善に決まっているのに」
「この人とは分かり合えない」
そう苛立つ人間でした。
もちろん、今でも苛立つくことはあります。
それでも、そういう思考になる相手の気持ちも理解する必要があります。
相手の気持ちを理解しないで自己主張ばかり相手にぶつけていたのでは物事が前に進みません。

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他人とは常に「宗教の違い」による摩擦や軋轢が発生すると考えるべき

人間には先天性、後天性で育まれ形成されたバックボーンがあるわけですから、他人がそれを変えることなどできようもありません。
これは「宗教の違い」として割り切るしかありません。
交渉をする、物事を前に進めるのを諦めろと言っているのではありません。
「宗教宗派」の違いを乗り越えて導き出せる最適解はきっとあるはずです。

仕事で例えると、同僚と仕事の進め方で揉めたとして、その同僚とて「このサービスをロンチする=クライアントの意向を叶える=ユーザーにハッピーを提供する=自社の利益に寄与する」というゴールはあなたと大差はないはず。
単にゴールまでの手法や経路があなたとの「宗教の違い」で衝突しているに過ぎないわけです。
意見の相違の原因は平たくいうとそういうところにあります。
世界のあらゆる宗教は「人々の救済」と「理想社会の構築」の思想が根底にありつつも、それぞれの概念が宗教によって違い、そこに成就するためのアプローチにも存分に違いがあるわけです。


それであれば、もはや「宗教の違い」を乗り越えて、お互いに良い方向へ進むための最適解を導き出すほかないですよね。
良い悪い、好き嫌いではなく、むしろ「それしかない」わけです。
私もそのような場面に何度遭遇し、耐えてきたことか。

それでも相手は悪くないのです。
もちろん私とてただの人間ですので人と意見が衝突すると苛立ちます。
要するにそれぞれの人間としてのバックボーンがあるわけで、それは個人の尊厳の問題であり、他人ではどうしようもありません。
それどころか、相手もあなたのことを「宗教の違い」と捉えて臨んで話しているかもしれないのです。

「宗教の違い」という表現がわかりづらい人は「思想の違い」と表現するとわかりやすいでしょうか。
職場の同僚が、仮に何らかの政治的に強い思想を持っているとします。
そしてその同僚が政治家A氏あるいはA党の支持者だったとします。
同僚がA氏もしくはA党を支持するに至った家庭環境や親の思想、その後歩んできた人生などが大きく投影されているわけなので、A氏もしくはA党とは思想を真逆にする政治家B氏もしくはB党を「素晴らしい!」と同僚に吹き込んだところで、それはその人の人生を愚弄あるいは否定するものになり、個人の尊厳を侵す行為にもなりうるわけです。

つまりはそういう折伏のような行為自体が「やっても無駄」でしかありません。
人のバックボーンや頭の中まで他人が触ることはできないのです。

「宗教の違い」の乗り越え方はファクトを積み上げて解決策を探るのみ

対話社とのゴールが同じであることを確認できないのならば、
・ゴールがどこかを揃えることにリソースを割いて
・ゴールが揃ったらあとはそこに至るまでのアプローチ(手段、経路)にどのような違いがあるのかを把握し
・差異が出るのはなぜなのかを分析した上で
・二者択一のいずれのルートで進むべきか、あるいは第三ルートで落としどころを図るか、針路を明確にする
というフローで物事を進める必要があります。

人間には生まれ育った環境、バックボーンがあり、頭の中も人それぞれ、その会社における職種、ポジションも違うとなると、目指すべきゴール(目的・目標)は同僚と同じでもアプローチ(手段)に差異が出るのはある意味で当然で、自然の摂理とも言えましょう。

相手にも相手のミッションがあり、生活や沽券もかかっているわけです。
頑固な人でなくとも意見が衝突するとすんなり譲るという人は社会においてそうそうないですし、あっさり譲る人は逆に言えばドライに考えすぎている、物事をきちんと捉えていない、考えが浅い、この話にこだわりのない人というネガティブ評価を下され、そういう感情を持って見られてしまいます。

摩擦を覚悟しつつも物事を前に進めなけれなならない場面に遭遇した場合は、お互いのバックボーンに立った「ファクト(事実)」を積み上げた上で、お互いにとっての最適解の解決策(落とし所)を探るしかないのです。

日本結婚相談所連盟

他人との摩擦は「人生あるある」と明るく捉えることで救われる

人間のバックボーンは多種多様だと認識をした上で、お互いにとって良い落とし所はどこか、第三のルートはあるか、あるならどういう手法が相応しいか、というところまで考えねばならないのは非常に骨が折れます。

しかしながら、あなた自身が例えばプロジェクトのステークホルダーだったりタスクを会社の誰かと共同で進める必要がある場合など、仕事でなくても生活におけるパートナーや友人知人、近所の人と一緒に何かを成し遂げなけれなならない場面があるでしょう。


赤の他人と物事を進める場合には何かしらの意見の相違があり、どう進めるかという経路や手法についての衝突があるのはどこの世界にもあり得ます。
人間社会に暮らす者としてそういうことはどうしたって起こるものだと悟って「このメンツができるだけハッピーになれるゴールは何か」を考えて一歩ずつ前進していくしかないのです。

これとは「人生あるある」として明るく捉えて付き合っていくしかありません。

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